| 善了寺のなりたち |
| 由 来 |
| 当寺は大島山宝林院善了寺と申し、浄土真宗本願寺派の寺院です。 古くは、真言宗で和泉村(現在の泉区和泉町5291番地 現在正法寺のあるところ)に在りましたが、天福元年(1233年)(親鸞聖人60歳の時)江戸麻布・善福寺の釈了海の弟子でありました釈了全により、浄土真宗に改められました。ゆえに、釈了全を開山としています。釈了全は弘安8年(1278年)3月5日に往生されました。 その後、領主の強制によって、浄土宗に改宗を命ぜられ、大部分の檀家は改宗しましたが篤信の門徒(現在の戸塚区 深谷町・影取町・瀬谷区 宮沢町・泉区 上飯田町と緑区 白山町)によって細々と維持され、ほとんど、名ばかりの寺院でした。 今から約400年ほど前(天正年間)、さびれた善了寺を再興したのは、釈了唯(号洞庵)で、当寺の中興と伝えられています。釈了唯は、俗名を、大久保加右衛門信唯といい、武田信玄の家臣 大久保伊豆守秀唯の子でありました。信唯が、晩年紀州に赴任したとき、本願寺第11世顕如上人(顕如上人は石山合戦の後、織田信長と和睦し鷺の森に在住しておられました。)とお会いされ、法弟となり釈了唯と改め、洞庵と号されました。その後、家臣磯利嘉右衛門・嘉左衛門兄弟を召しつれて、当地に来て現在の場所に善了寺を移転され、衰退した善了寺を中興されました。釈了唯は、天正15年(1587年)4月8日に往生されました。それにちなんで、現在の恒例の法要は、8日に行っています。 『神奈川県皇国地誌 相模国鎌倉郡村誌』の「矢部町誌 寺」の項目(明治12年2月編成)には、「東西三十間南北二十間五尺四寸面積六百二十九坪本町東南ノ方ニアリ西京府下真宗西本願寺ノ末派ナリ天正年間僧洞庵開基創建ス」と記録されています。 正徳2年に梵鐘が鋳造されましたが、慶応3年10月12日(1866年)矢部町の大火によって、7間4面の堂々たる本堂、石坂右上の太子堂および庫裡は全焼し、鐘楼のみが残されただけになりました。その後、明治2年に本堂が再建されました。第14世釈智淳が明治23年に入寺したときは本堂だけで、そのほかは、何一つなかったと記録されています。その本堂も、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災の時半壊しました。。 現在の本堂は、昭和20年(1945年)10月に 第16世 釈恵門によって再建されたものであります。昭和63年(1988年) 釈了恵によって、ご本尊 阿弥陀如来立像の御修復がなされ、また、ご門徒の御懇念により親鸞聖人銅像の建立と、聖徳太子木像の修復を成し遂げました。 平成9年(1997年)4月1日 住職は、第18世 釈智信が継職し、長い歴史の重みを感じながら、ご門徒のみなさまと共に、新たな歴史を築き「お念仏の声を世界に子や孫に」伝え、「御同朋の社会を目指して」力強く活動してゆくことを、心から、念願するものであります。 |
| 明允(めいいん)学舎 (矢部学舎) |
| 戸塚の小学校設立の歴史は、明治5年(1872年)8月3日に出された学制に基づき、従来の「筆学所」(寺子屋)を廃止して、明治6年(1873年)5月に矢部学舎、翌6月10日、富塚学舎が開校されました。 矢部学舎は、矢部町と、吉田町が連合して、教師に会津藩士であった瓜生某を招き、学校世話役に成宮伊兵衛と田中徳右衛門が就任して、矢部町11番地の元問屋場内(後に矢部町9番地の喜久良屋2階を使用)で開校されました。 明治8年(1875年)6月29日に矢部学舎から明允学舎に改称し、明治9年(1876年)10月に、善了寺隣接の土地へ移築してきました。明治16年(1883年)当時の状況は、教師数2名、在籍生徒数、男37名、女32名、卒業生、男3名、女2名、学校長(首席教員)北村傳蔵、一カ年授業料51円と記録されています。 明治19年(1886年)4月9日 教育令が廃止され、小学校令が公布され、小学校を、尋常科(4ケ年)高等小学(4年)の課程に分けられ、明充学舎は尋常科4カ年の小学校になりました。明治25年(1892年)改正小学校令により、鎌倉郡戸塚町矢部・吉田区立尋常明充小学校となりました。 明治33年(1900年)10月10日より24日まで,明允小学校を会場として、神奈川県教育会主催の教育品展示会が開かれ,20日には、富美宮・泰宮内親王殿下もご覧になり、御記念に校庭に羅漢柏の木をお手植えになられ、本校は光栄に輝きました。明治35年(1902年)に戸塚小学校(元、富塚学舎)に併合され分教場となり、羅漢柏の木は、昭和3年3月6日、戸塚小学校に移植されました。 今もなお、立派にそびえ立つ楠の大樹は、多くの子供達の明るい声をよみがえらせてくれそうです。 参照 『戸塚郷土誌』 戸塚町郷土研究会発行 昭和9年8月20日 |
| 自由民権運動 |
| 明充学校が、自由民権運動の演説会の会場になっていたことは、歴史のうえで、貴重なことですす。 明治14年(1881年)頃に我が国の自由民権運動は、大きな高まりを見せました。 自由民権運動の特徴の一つに全国各地で政治結社や学習結社が組織されたことがあります。活発な演説会や討論会、学習会が開かれ、その中で憲法草案が起草されるなど民権世論を急速に高める役割を果たしました。 横浜では、明治13年(1880年)11月に「顕猶社けんゆうしゃ」の主催で演説会が開かれました。これに刺激されてか戸塚に「友文会」が組織された模様でそれ以後は、矢部町の明充学校で開かれました。 東京横浜毎日新聞には当時(明治14年)の演説会の事が、記録されています。 |